吉田松陰が渡った野木崎下川岸の渡し(福田)

吉田松陰が下船した野木崎下川岸の渡し場(福田)

 幕末の志士吉田松陰は嘉永4年(1851)の12月に江戸を出発してから翌5年の4月にかけて東北を遊歴し、その記録を「東北游日誌」に残しています。その中で、利根川を「船戸」から渡り水海道に宿すと書いています。当時の「船戸」の対岸は野木崎の「下川岸の渡し」だったので、この渡しで下船したと考えられています。私は守谷市に移住してきて、吉田松陰が守谷を通過していると知り、その時下船した「下川岸」の渡し場はどこにあったのだろうと興味を持ちました。私の知る限り「下川岸の渡し」の跡を示す碑等は無いようです。
 「守谷中央図書館/わたしたちの守谷市」の「守谷わがふるさと」ー「守谷の今と昔」のなかの「大野地区」のページに野木崎下川岸の記事があります。下川岸の渡し場と蒸気船「通運丸」と高瀬舟の絵が挿入されており、明治23年(1890)の利根運河通水以降の情景と思われます。現在下川岸地区の堤防の先には守谷市大利根運動公園が広がっており、この絵と一致しません。同じページにある明治13年作製「迅速測図」でも下川岸は堤防を挟んで利根川に面しています。
 つくばにある国土地理院「地図と測量の科学館」で「迅速測図(野木崎村近傍村落)」を購入しました。「わたしたちの守谷市」に載っている迅速測図は購入した迅速測図の中央部を拡大したものでした。図を眺めているうちに先の疑問が氷解しました。鬼怒川と利根川の合流地点が現在と違っているのです。明治33年から洪水対策として合流地点を2,200m下流に移す改修が始まったと記録にあります。改修後利根川の流れが柏側に移動して、下川岸の渡し場に土砂が堆積して今の大利根運動公園の土地が出来上がったようです。
 下川岸から香取神社の側を通って坂を上がった先にある大野小学校の交差点に、吉田松陰が利根川を渡った際に作った漢詩を刻書した立札が立っています。この交差点は交通の要所ですが、下川岸から香取神社の左側を抜けて正安寺の前を通る路がありました。ここを通って水海道に向かえば、件の交差点は通りません。松陰はどちらの道を歩いたのでしょう。
 このホームページに会員の吉田さんが「守谷市野木崎地区の戦没搭乗員の慰霊碑」について投稿しています。戦没した山本勲美少尉は山口県の出身者です。山本少尉は約100年前に同郷の志士吉田松陰がこの渡しで利根川を渡ったことを知っていたでしょうか。きっと知っていてこの場所に想いを馳せていたんだと私は想像しています。

(下川岸の堤防から柏方面を望む)

     (大野小学校前の交差点)

        (正安寺前の通り)

                     

                                (福田猛記)