本多作左衛門の墓参り(多々納)

本多作左衛門の墓参り(多々納)

「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
日本一短い手紙とされる作者である本多作左衛門重次の墓参りに行きました。取手駅から徒歩15分の 台宿にあります。長篠の戦の陣中から妻に宛てた手紙です。

作左衛門は家康より14歳上で、ずけずけと遠慮なく諫言する性格でした。秀吉に対し強硬派であったため、秀吉からたびたび怒りを買い、害が及ぶのを避けるために家康は取手に蟄居させました。1596年に67歳で死亡。
墓は徳川時代には手入れされていましたが、明治になってからは私有地になり荒廃していました。維新から70年後の昭和10年に地元の有志で今ある立派な墓地に復原されました。

徳川譜代は古い順から、安祥譜代、岡崎譜代、駿府譜代、関ヶ原の戦い前に家康側になった大名となります。
安祥譜代は家康の祖父以前から仕え、松平郷(豊田市)に本拠地があったときからの重臣です。 本多家、酒井家、大久保家、阿部家、青山家など。
作左衛門は取手で3000石でした。亡くなった1596年は、同列の安祥譜代は3万石~10万石と出世しています。

家康が正室築山殿の下女に手を付け懐妊させてしまいました。その下女が嫉妬深い築山殿に殺されるのを防ぐため、作左衛門にかくまってもらいました。そして生まれた子が次男で後の結城秀康です。姓は徳川➡️羽柴➡️結城➡️松平。最後は福井藩68万石に。

手紙にあるお仙は作左衛門の嫡男で、のちの成重です。成重は昔の縁あって福井藩に仕えました。結城秀康の後を継いだ息子の松平忠直は、大阪夏の陣で真田幸村の首級を取りましたが、幕府からの論功行賞が少なくて秀忠将軍対しに不満を抱き、江戸に参勤しなかったり、妻(秀忠の三女)に暴力を振るうため蟄居になりました。福井藩は減俸されたので、藩主空白になった土地の丸岡に成重は五万石藩主になれました。
しかし、成重の子孫はアル中で1695年に改易になりました。

作左衛門が家康から拝領した武具は、菩提寺の取手本願寺にあります。