保木間の渡し跡(福田)

保木間の渡し跡

 現在の守谷市にかってあった利根川の渡しは、上流から保木間の渡し、がまんの渡し、下川岸の渡し、大柏の渡し、高野の渡しの五つの渡しがあったそうです。(「もりやの歴史を学ぶ会」資料2011.11.5、2012.1.7 守谷市近辺の渡し場 川嶋健)その中、保木間の渡しを除く4つには、本当の渡し跡を示しているのか疑わしい渡し跡表示(地図や石碑)も含めると、ガイドマップ(「発見のまち もりや」等)に渡し場跡があります。そこで、渡し跡に関する文献を調べてみましたが、保木間の渡し場跡に関する記述を見つけることができませんでした。文献ではなく、渡し場の載った昔の地図と現在の地図を比べてみることで場所を推定することに気づいて探してみると、前出の川嶋資料に明治39年測量守谷町地図が添付されており、保木間の渡しが明記されていることが分かりました。明治後期から昭和初期に実施された利根川第Ⅲ期改修工事(利根川の湾曲部の直線化と鬼怒川合流地点の付替え)後の地図を重ねてみることで現在の場所が推定できます。
 鬼怒川合流部の右岸と利根川の間の三角地は守谷市大木と呼ばれ、広大な牧草地が広がっています。三角地の頂点付近に複数の酪農畜舎があります。利根川に沿って高い堤防が築かれ、その天端上に舗装道路が通っています。この道路上に「大木水門」の看板がある建物があります。牧草地を流れ利根川に流れ込む用水路の水門です。新旧地図の重ね合わせで推定される「保木間の渡し」(両岸の渡し場を含む)があったのはこの水門の辺りです。丁度ここから流れ込む用水路の方向に筑波山が見えています。水門から少し利根川上流側に千葉県と茨城県の県境があるので、その県境が旧利根川の流路を表しているかも知れませんが、私の重ね合わせ地図方式では少しずれています。
 川嶋資料をもう少し丁寧に読んで考えれば、渡し跡の確認にあまり迷うことはなかったかなと反省していますが、「保木間の渡し」跡がほぼ確認できたのに満足しています。今は広大な牧草地の中に埋まって渡し場の跡は全く確認できません。頭上に広がった青い空を見上げながら昔渡し船に乗った人のことを想像してみました。

図ー1:大木水門の建屋。この辺りに昔「保木間の渡し」があった。

図ー2:大木水門から用水路の方向に筑波山が見える。