本多作左衛門重次の墳墓と青柳本願寺の探索(福田)

       本多重次の墳墓

 10月5日(土)の午前、「もりやの歴史を学ぶ会」と取手有志の会のメンバーが、取手駅東ロータリーを出発して、第一の目的地である本多重次の墳墓に向かう。北相馬台地の東端をほぼ北に上るルートのため、幾つかの坂を上り下りする。墳墓は最後の急な坂を上った丘の上にある。路上駐車の車が、周りの住民の通行の邪魔になり気が気でない。江戸時代の大名の墓のような規模はないが、端正な佇まいがあり、掃除等最小限の手入れはなされているよう。Tさんが「良い石を使っているから、墓の形が崩れていない」と説明されていた。坂を下ると、今度は平坦な道路を行く。昔は水田が広がっていたのでしょう。第二の目的地は青柳本願寺である。田圃の中にあるので、昔から洪水被害があったのだろうなあと心配をする。駐車場は広く、境内はよく整備されている。現在でも冠婚葬祭等で活躍しているよう。「一筆啓上、・・・」の石碑が「サー写真を撮って」と、参道の横に立っている。本堂は二階建て。本尊をお祭する内陣と外陣は二階に置かれており、目立たないが外壁をコンクリート作りにして堅固な建物になっている。少々の洪水には耐えられそう。本尊は阿弥陀如来像。内陣に本多重次に纏わる遺品が所狭しと置かれている。左には、仏壇と籠。仏壇の中に重次本人の位牌や戦死した部下が連名で記された位牌がある。右には三領の鎧兜があり、重次のものと曾孫で越前丸岡藩主とその子孫の旗本のものとのこと。兜の本多家の家紋(立葵と呼ぶらしい)が目立つ。重次の肖像画の写しがあるが、五体満足な像なのが不思議。重次は長篠の戦いで目を射られ、手や指を切られて失くしているとものの本に書かれているから。
 北関東の井野に蟄居させられた本多重次は失意の晩年を過ごしたのでしょうか。優れた行政官でもあったと言われた重次は、風水害の激しい関東の自然環境の整備が徳川家の課題であると認識し、次の時代に始まる治水工事を自分の手でやりたいと考えていたかも知れません。
 利根川の河原にある「かたらいの郷」での昼食会では、ヤオコーで購入した弁当を皆ペロリと食べたものでした。

   「一筆啓上」の石碑
   本多重次や子孫等の鎧兜